我が家の歴史11:菊地睦(きくちむつ)について(3)早すぎる死が残したもの [山都の菊地家]
前回(我が家の歴史10)に引き続き、私の祖父の姉で、アメリカ留学をした菊地睦(きくちむつ)を紹介します。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
タグ:山都町
我が家の歴史10:菊地睦(きくちむつ)について(2)ミシガン大学に入学 [山都の菊地家]
我が家の歴史9:菊地睦(きくちむつ)について(1)会津からミシガンへ [山都の菊地家]
我が家の歴史8:三郎の子どもたち [山都の菊地家]
長い間、続きを書けずにいた我が家の歴史シリーズを久しぶりに書きます。
前回までは、私の祖父の父である菊地三郎について紹介してきました。画家の石井柏亭氏や学習院大学の学長の安倍能成氏と交流があったことはすでに紹介しました。
今回からは三郎の子どもたちについて紹介します。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
我が家の歴史7:三郎の交友関係2(哲学者、学習院大学学長:安倍能成氏) [山都の菊地家]
前回に引き続き、菊地三郎の交友関係について紹介します。前回紹介した石井柏亭氏の著書「繪の旅」に、菊地家と思われる家に安倍能成氏が来ていたと書かれていたのですが、その件について調べてみました。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
我が家の歴史6:三郎の交友関係1(画家:石井柏亭氏) [山都の菊地家]
我が家の歴史シリーズですが、今回は前回とりあげた私の祖父の父である菊地三郎の意外な交友関係について紹介します。
*上の画像は、石井柏亭氏の「会津の雪」。著書「繪の旅」より。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
我が家の歴史5:三郎とマサ [山都の菊地家]
我が家の歴史シリーズですが、今回はこちらの家系図「醫業相傳」で十代目にあたる三郎とその妻マサについて紹介します。
写真は菊地醫院を正面からみたところです。同時に見つかった写真の年代や昭和12年の写真の外観と一致することから、昭和10年代の写真と思われます。場所は、旧・福島縣耶麻郡山都村字廣野(現・福島県喜多方市山都町広野)にあり、現在はこの病院部分はありませんが、その後ろの土蔵造りの母屋は残っています。(但し、現在は菊地家の遠縁にあたる方が所有・管理されていますので、勝手に立ち入らないようお願いします。)
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
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我が家の歴史4:医師の家系図 [山都の菊地家]
我が家の歴史を語るのに家系図があるとどの辺の話をしているかわかりやすくなります。それをどう作ろうかずっと考えていました。我が家の過去帳は清和源氏から始まっていますが、そこからとなると長くなり過ぎてしまうので、古文書「醫業相傳(伝)」をもとに初めて医師となった菊地壽軒景保からの家系図を試作しました。(それ以前の記述も面白いのでそれはいずれ紹介したいと思います。)
家系図の原型は私の母が大きな紙に手書きしたものがありますが、情報量が多くそれをどう整理してデジタル化するかが課題でした。もうひとつの課題は、どの範囲までの人を載せるかを決めることです。直系親族の兄弟姉妹やそれぞれの配偶者や子をどこまで載せるか、存命中の方はどうするか、など。色々悩みつつ家系図を試作しました。
今回は影響が少ない医師を継いだ人だけの家系図を紹介します。存命中なのは一番下(十三代)の、私の弟だけです。私の曾祖父の三郎の兄の一角さんが含まれていますが、そこは「醫業相傳」に従いました。もう少し詳しい家系図は、全体を公開すると差し障りがあるといけないので、今後の記事中で、その時必要な部分に限定して紹介しようかと考えています。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
家系図の原型は私の母が大きな紙に手書きしたものがありますが、情報量が多くそれをどう整理してデジタル化するかが課題でした。もうひとつの課題は、どの範囲までの人を載せるかを決めることです。直系親族の兄弟姉妹やそれぞれの配偶者や子をどこまで載せるか、存命中の方はどうするか、など。色々悩みつつ家系図を試作しました。
今回は影響が少ない医師を継いだ人だけの家系図を紹介します。存命中なのは一番下(十三代)の、私の弟だけです。私の曾祖父の三郎の兄の一角さんが含まれていますが、そこは「醫業相傳」に従いました。もう少し詳しい家系図は、全体を公開すると差し障りがあるといけないので、今後の記事中で、その時必要な部分に限定して紹介しようかと考えています。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
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我が家の歴史3:一齋の子どもたち [山都の菊地家]
我が家の歴史シリーズですが、今回は菊地一齋の子どもたちについてです。
菊地一齋(1831-1904)・やを(1839-1923)夫妻には4人の息子と3人の娘がいます。二男の次郎と四男の四郎は幼くして亡くなり、長男の一角と三男の三郎は医師となりました。長女の芳(よし)は河沼郡森野の山口貢氏と、二女の節(とき)は安積郡冨田村の近藤美時氏と、三女の冨米(とめ)は河沼郡柳津の鈴木亀蔵氏と結婚したと伝えられています。三郎が私の曾祖父になります。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
菊地一齋(1831-1904)・やを(1839-1923)夫妻には4人の息子と3人の娘がいます。二男の次郎と四男の四郎は幼くして亡くなり、長男の一角と三男の三郎は医師となりました。長女の芳(よし)は河沼郡森野の山口貢氏と、二女の節(とき)は安積郡冨田村の近藤美時氏と、三女の冨米(とめ)は河沼郡柳津の鈴木亀蔵氏と結婚したと伝えられています。三郎が私の曾祖父になります。
*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。