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我が家の歴史11:菊地睦(きくちむつ)について(3)早すぎる死が残したもの [山都の菊地家]

前回(我が家の歴史10)に引き続き、私の祖父の姉で、アメリカ留学をした菊地睦(きくちむつ)を紹介します。

*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。

のミシガンでの印象について、F. B. ロジャーズ氏(Frances Broene Rogers)が著書「Footfalls: Echoes of the Life of My Time, 1895-1985」で「はとても可愛く、いつも日本人の男性たちと一緒にいた」、「気位が高く身支度ができていても呼ばれるまで部屋で座っていたと聞いた」、「彼女の態度は堅苦しく控えめだった」などと述べています。また、「秋に授業が再開する前に亡くなった。結核らしい。」というような記述もあり、1916年に帰国し、その直後に亡くなったと思われていたようです。
サダカタ氏は英語が苦手で恥ずかしがり屋だったようで、デートもせず勉強に明け暮れていたというように書かれています。

資料8:Frances Broene Rogers「Footfalls」
 8-1 表紙画像:Beginning of ten-mile hike. Frances (R) and friends. Lake Michigan, 1914.
(10マイルハイクの始まり。フランシスと友人たち。ミシガン湖、1914年)

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 8-2 P.79
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 8-3 該当箇所拡大
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ミシガン大学のイヤーブック等にも、が「在学中に結核にかかり、帰国、間もなく死亡した」(菊地睦について(1)の資料3)とか、「’14年〜’16年に在籍し、日本のどこかで1916年頃、年齢は23歳くらいに亡くなった」(資料9)などと書かれていますが、が亡くなるのは大正13年(1924年)7月5日のことです。

資料9:University of Michigan Official Publication, 第 45 巻 P.18
9-1
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9-2 について記載されている箇所を拡大したもの
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DEATH NOTICESと題されたページに以下の記述があります。
 Mutsu Kikuchi, a'14-16, d. somewhere in Japan about 1916; aged about 23.

の父親の菊地三郎が書いたと思われる「菊池家系」には「大正三年八月米國ミシガン州ミシガン大學ニ入学居ルコト三年病ヲ得帰朝後病ヲ養フコト九年ニシテ夭ス」とあります。 年数の数え方ですが、1914年に渡米し1916年に帰国したことを足かけ3年と数えれば、1916年に帰国して1924年に亡くなったのも足かけ9年になります。

資料10:「菊池家系」
10-1 菊池家系 P.1〜2
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10-2 睦に関する記述を拡大したもの
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の死因については、の姪の金元知子氏(三郎の三女(せい)の五女)に問い合わせたところ、「母()からは結核にかかり帰国後死亡したと聞いております。」との回答がありました。

資料11:金元知子氏の書簡の一部 2015年2月15日付
     菊地晴子(三郎の二男耕一の長男敬一の妻)に宛てたもの。
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が発疹チフスになって帰国後に死亡した書かれた資料もあります。資料12には、当時はtyphoid(腸チフス)でも命を落とす場合があったと解説する一方、の死因についてはtyphus(発疹チフス)としています。両者は症状が似ているために当初似た名前がつけられましたが、全くちがう病気です(腸チフスはチフス菌に汚染された水や食物から感染し、発疹チフスはコロモジラミによって媒介される。)。しかし、いずれも衛生環境が悪いと起こりやすいという点は共通しています。

資料12:「Toilets, Ladies, and Exercise」Fritz Swenson 
COLLEGE OF LITERATURE, SCIENCE, AND ARTS UNIVERSITY OF MICHIGAN

いくつかある章のうち、最後の章に睦のことがかかれています。その章の前半部分がこちらです。
Coeducation and the Dorm on the Hill
The strength of the Women’s League and of the Barbour Gymnasium attracted more donors to the cause of coeducation. People were still dying of typhoid fever in turn-of-the-century Ann Arbor, and several donors stepped in to finally build the first dormitories on campus since Tappan had closed the living quarters more than a half-century earlier.
William Cook built the first dormitory for women to honor his mother, Martha Walford Cook, which opened in 1915. That same year, the children of Helen H. Newberry (whose husband, John, had been a member of the class of 1847) had a residence hall built in her honor. Regent Barbour believed that the living conditions on campus could be improved. In addition to supporting the women’s gym in its early phases, he also started a scholarship for women from Asia in 1914. He hoped that educating more Asian women in the West would diminish the likelihood of war in the Pacific. When one of the first two women he sponsored, Mutsu Kikuchi, contracted typhus in Ann Arbor and later died in Japan, he was determined to improve campus living conditions. By 1919 he had completed a residence hall named for his own mother, Betsy Barbour. Another house was donated by Judge Noah Cheever as a women’s residence in 1921. For several years, these four buildings constituted the entire dormitory stock on campus.

男女共学とヒルの寮
女性同盟とバーバー体育館の力は、より多くの寄贈者を男女共学に引き付けた。世紀末前後のアナーバーでは腸チフスのため死んでいたが、半世紀以上早く、タッパンが残る4分の1を閉じたので、最終的に、何人かの寄贈者がキャンパスに最初の寮を立てるために介入した。
ウィリアム・コックは、彼の母マーサ・ウォルフォード・コックを記念して、女性のために最初の寮を建て、1915年にオープンした。その同じ年、ヘレンH.ニューベリーの子供が(彼女の夫のジョンは1847のクラスのメンバーだった)学校の寄宿舎を彼女に敬意を表して建てさせた。評議員バーバーは、キャンパスの生活状態が改善できると信じた。その早いフェーズにおいて女性の体育館をサポートすることに加えて、彼は1914年にアジアから女性のための奨学金も始めた。彼は、西欧でより多くのアジアの女性を教育することが太平洋の戦争の可能性を減少させると考えた。彼が後援した最初の2人の女性のうちの1人 、ムツ・キクチ菊地睦)がアナーバーで発疹チフスに罹り、後に日本で後で亡くなったので、彼はキャンパスの生活状態を改善すると決めた。1919年までに、彼は、彼自身の母、ベッツィ・バーバーの名前をつけた学校の寄宿舎を完成した。別の寮は1921年に女性のレジデンスとして裁判官ノア・チーバーにより寄贈された。数年の間、これらの4棟の建物がキャンパスの寮全体を構成していた。
出典:「Toilets, Ladies, and Exercise」Fritz Swenson

が亡くなった(実際にはミシガン関係者が死亡したと考えた1916年より8年あとの1924年ですが)ことで、バーバー氏は女子寮の改善を決意して、1919年に自身の母の名を付けた寮を完成させました。

自身が医学を修めて社会に貢献することはできませんでしたが、の死によって、後の学生の生活環境が改善されたならば、遠い異国で勉学に励んだの努力が、少しは後の世の役に立てたといえるのではないでしょうか。

のお墓は故郷の福島県喜多方市山都町の東福寺にあります。昭和10年(1935年)9月、大きな自然石の墓石が建立され、志半ばで病に倒れながらも、菊地家初の海外留学を果たし、子弟の模範になったの功績が刻まれました。 亡くなってから11年、寡黙でいつも静かに漢文の本を読んでいたという三郎が書いた墓碑銘には、長女の早過ぎる死を悼む思いがあふれています。
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*時間が経ってしまうと、先祖の足跡をたどることはなかなか容易ではありません。山都在住で地元の歴史に詳しいO氏に色々教えていただきながら、私も調べられることを調べています。でもまだまだわからないことだらけです。きっと他にも情報を探している方がいらっしゃるはずと思って、このシリーズと書いています。この記事に関連した情報をお持ちの方はご一報いただければありがたいです。個人情報に関わる内容についてはコメント欄ではなく以下へご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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タグ:山都町
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