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我が家の歴史9:菊地睦(きくちむつ)について(1)会津からミシガンへ [山都の菊地家]

我が家の歴史シリーズですが、アメリカ留学をした菊地睦(きくちむつ)を紹介します。

前回、私の祖父の父である菊地三郎の子どもたちについて紹介しました。その時に触れなかった三郎の長女がです。アメリカのミシガン大学に留学したと伝えられているについて調べた結果を報告します。

*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。

菊地睦は、明治26年(1894年)5月19日に、菊地三郎(医師)・マサの長女として現在の福島県喜多方市山都町で誕生しました。 菊地家は代々医者の家系で、父三郎がその十代目になります。母マサは自身は高等教育を受けてはいませんが、大変教育熱心で、子どもたちの教育にかける費用を惜しまなかったと言われており、夫妻の三男五女のうち1歳で亡くなった長男以外全員が大学に進学しています。

資料1:桜楓会名簿(日本女子大学の卒業生の名簿)
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大正3年(1914年)、日本女子大学英文学部を卒業(11回生) したは、同年、8月12日にミシガン大学に留学するため渡米しています。

資料2:菊地睦の墓石(喜多方市山都町の東福寺にある)
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は、ミシガン大学の卒業生で資産家のL. L. バーバー氏(Levi Lewis Barbour)が東洋の女性の教育のために創設した奨学制度(Barbour Scholarship)の初めての二人の奨学生の1人に選ばれました。(もうひとりはサダカタ・カメヨ氏。後に小児科医として聖路加国際病院で活躍されています。)

バーバー氏は英語に不慣れで大学進学の準備が不十分だったふたりを数ヶ月間自宅に住まわせて家庭教師をつけ、彼らの衣服の購入まで支援したと言われています。資料3には、医学部予科生として大正3〜5年(1914〜1916年)の間、在籍したように書かれていますが、サダカタ氏について書かれた資料4では、サダカタ氏が数ヶ月バーバー氏の家に滞在したあと、1915年9月に医学部予科に入学したと書いてあります。おそらくも同じ時に入学したと思われます。

資料3:Quarterly Review: A Journal of University Perspectives, 第 49 巻(1942.12.19)
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Dean Emeritus Myra B. Jordan recently told of the first two girls who were invited as Barbour Scholars. They were Japanese and arrived in 1914, before the scholarship were formally announced. Unfamiliar with the English and unprepared to enter the University, they stayed at Mr. Barbour's home and were tutored for several months. They even shopped for clothes on Mr. Barbour's charge account. From high-class Oriental families, they thought housework beneath their dignity: during visit at Mrs. Jordan's home, however they taught such menial tasks as "how to make their own beds." One of these girl was Kameyo Sadakata, to be mentioned again; the other, Mutsu Kikuchi, a premedical student from 1914-1916, became ill, returned to Japan, and died of tuberculosis shortly afterward.

名誉学部長マイラ・B・ジョーダンは、最近、バーバー奨学生として招待された最初の2人の女子について話した。彼らは日本人であり、奨学金が正式に発表される前の、1914年に到着した。英語に不慣れで、大学に入る準備がなく、彼らはバーバー氏の家に滞在して、数ヶ月の間個別指導された。彼らはバーバー氏のチャージアカウントにおいて衣服を買いに行きさえした。ハイクラスの東洋ファミリーから来て、彼らは家事は彼らの威厳にそぐわないと考えた:ジョーダン夫人の家に訪問している間でさえ、「どのように彼ら自身のベッドメイクするか」のような卑しい仕事を教えられた。これらの女の子のうちの1人は、再び言及されるように、カメヨ・サダカタ(定方亀代)であった;もうひとりは、ムツ・キクチ(菊地睦)で、1914-1916からの医学部進学課程の学生だったが、病気になり、日本に戻り、結核のためまもなく死んだ。

出典:Quarterly Review: A Journal of University Perspectives, 第 49 巻 P.14〜16
 「TWENTY-FIVE YEARS OF THE BARBOUR SCHOLARSHIPS」 W. Carl Rufus


資料4:The University of Michigan, an Encyclopedic Survey P.1856
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The transformation of the first Barbour Scholar, Kameyo Sadakata, a tiny and timid Japanese schoolgirl, into a well-trained pediatrician required eleven years. After several months in Mr. Barbour's home she matriculated for premedical courses in September, 1915, and entered the Medical School three years later.

最初のバーバー奨学生の、小さく、臆病な日本人女子生徒カメヨ・サダカタは、よく訓練された小児科医への変化に11年を要した。
バーバー氏の家の数ヶ月過ごした後に、彼女は1915年9月に医学部進学課程のコースに入学し、3年後に医学部に入った。

出典:The University of Michigan, an Encyclopedic Survey P.1856


長くなりますので、この続きは「我が家の歴史10」をご覧ください。

*時間が経ってしまうと、先祖の足跡をたどることはなかなか容易ではありません。山都在住で地元の歴史に詳しいO氏に色々教えていただきながら、私も調べられることを調べています。でもまだまだわからないことだらけです。きっと他にも情報を探している方がいらっしゃるはずと思って、このシリーズと書いています。この記事に関連した情報をお持ちの方はご一報いただければありがたいです。個人情報に関わる内容についてはコメント欄ではなく以下へご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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タグ:山都町
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