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我が家の歴史2:木曽とのつながり [山都の菊地家]

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こちらで紹介した、我が家の先祖のひとり、菊地一齋のお話の続きです。一齋の石碑が建っている小山公園は厳密には喜多方市の山都町小山にあるのですが、隣が木曽で、このあたりも含めて木曽行政区になっているらしいです。
*写真は小山公園からみた一ノ戸川。奥にみえる黄色い鉄橋はSLの撮影スポットとして人気がある。


木曽と聞いて思い出したことがあります。一齋の母の菊地やすは、木曽の村長の娘でした。

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我が家の数代か前までの先祖の位牌(写真左)はみんなでひとつになっていて、屋根の部分を外すと何枚もの木の板の束になっています。その板の一枚一枚に表に戒名、裏に俗名や死亡年月日などがかかれていて、その時にお参りする人の板を手前にして拝んでいたのでしょう。何と合理的!(笑)

そのうちの一枚、やすの位牌(写真右)の裏には次のように書かれています。

明治十七年四月弌五日 旧三月三十日
齊藤氏 名 安 同村字木曽 村長
齊藤重郎右エ門三女 久敬 妻
享年七十四歳 以病死亡

わかりやすく分かち書きにしてみました。日付のところはよくわかりませんが、「齊藤家の出身で名前はやす)、山都村字木曽の村長齊藤重郎右エ門の三女、(菊地)久敬の妻」という風に読めます。

私はずっと「木曽村長」だと思っていたのですが、これを書きながら、そうではなくて住所が山都村字木曽で、齊藤重郎右エ門さんは山都村の村長だったんだなと気づきました。

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うちにある古文書のひとつ「明治十年戸籍」には、やすのところに「当村平民 斉藤重郎右エ門 與四之丞 亡 三女」(「丞」の字は左側の「フ」のところが「口」になっている)と書かれていて「当村」とは同ページの記述から「岩代國耶麻郡山都村」と思われます。それで納得できました。

父の実家があった広野は木曽の隣なので、他の村の村長の娘さんがお嫁に来たと思っていたのに、実は同じ村の隣の地区だったんですね。遠い昔の、顔も知らないご先祖の話ですが、時を超えてつながりを感じるから不思議です。


*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。
タグ:山都町
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