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我が家の歴史7:三郎の交友関係2(哲学者、学習院大学学長:安倍能成氏) [山都の菊地家]

前回に引き続き、菊地三郎の交友関係について紹介します。前回紹介した石井柏亭氏の著書「繪の旅」に、菊地家と思われる家に安倍能成氏が来ていたと書かれていたのですが、その件について調べてみました。

*我が家の直系の人物以外はご子孫など関係者の方もいらっしゃると思うのでなるべく敬称をつけてご紹介したいのですが、説明の都合上省略する場合もあります。その点ご了承ください。

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どこから手をつけていいかわからないので、まず安倍氏の著書を探しました。その中にいくつか旅行記があることがわかり、中身が知りたくて目次を探しました。すると、「静夜集」(岩波書店)という本の目次がみつかり、その中に気になるタイトルをがありました。ひとつは「磐梯山と龍飛岬」、そしてもうひとつは「柳井津の虚空蔵」というものです。

「磐梯山と龍飛岬」には次のような記述があります。
去年の夏は會津の山中のある村にいた。

この文章は大正9年に書かれていて、去年ということは、大正8年ということになり、石井氏が書いている大正8年の夏に山都のK家に安倍能成氏がいたという話と一致します。

このあとは菊地家に関することは書かれていません。

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次に「柳井津の虚空蔵」の方ですが、こちらは興味深い内容が書かれています。
十二三年前會津の山都といふ村の知人の家で夏を過ごした時、そこの娘さんと男の子と三人で、同じ會津領の柳井津の虚空蔵を参詣したことがある。ここはこの地方での流行佛で、「柳井津の十三参り」といひ、男子十三になると参詣する習はしになつて居る、と聞いた。

こちらは昭和7年に書かれていますが、12〜3年前というと、大正8年が13年前にあたり、「磐梯山と龍飛岬」と同時期のことを書いていると思われます。また、「男の子」と書かれているのはその時に12歳だった、明治40年生まれの菊地耕一と思われます。菊地家には他に男子が二人いますが、長男の武一(又は武一郎)は幼くして亡くなっていて、三男の退治は大正5年生まれで当時わずか3歳なので、そんな幼児を同行させたとは考えにくいので、次男で十三参りの年齢でもあった耕一が同行したと考えられます。娘さんというのは耕一の姉の誰かだったのでしょう。

前回石井柏亭氏と長く交流があったとわかった三郎の三女の(せい)さんは安倍能成氏とも交流があったようです。

さんの五女の金元知子さんからの手紙には次のように書かれています。
母の話では安倍さんは若い頃菊地家に長く泊まり、私の祖父の三郎さんより漢学を習い、母は安倍さんから英詩を習ったそうです。

大正8年(1919年)に1896年生まれのさんは23歳くらいです。耕一の十三参りに付き添ったのがさんだとすれば、英詩を教わっていた安倍氏に柳津を案内するのも自然な感じがします。

ところで安倍氏の著書では「柳井津」と表記されていますが、正しくは「柳津(やないづ)」です。近々会津に行く予定なので、柳津の虚空蔵尊に行ってみたいと思っています。


三郎がどこで安倍氏と出会ったのか、どういう経緯で山都に招いたのかなど、詳しいことはわかっていません。のちの学習院大学学長と交流があったとは、三郎自体がどんな人だったのか、興味は尽きません。


*時間が経ってしまうと、先祖の足跡をたどることはなかなか容易ではありません。山都在住で地元の歴史に詳しいO氏に色々教えていただきながら、私も調べられることを調べています。でもまだまだわからないことだらけです。きっと他にも情報を探している方がいらっしゃるはずと思って、このシリーズと書いています。この記事に関連した情報をお持ちの方はご一報いただければありがたいです。個人情報に関わる内容についてはコメント欄ではなく以下へご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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タグ:山都町 柳津
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