我が家の歴史1:幕末の会津で [山都の菊地家]
私の父やその先祖は会津の山都町の出身です。昔は耶麻郡(やまぐん)山都町といっていましたが、今は喜多方市山都町になっています。弟も含めて11代医者が続いた家で、父も子どものころは山都に住んでいましたが、祖父はのちに東京で開業し、山都には家とお墓が残っています。
うちの先祖は家のルーツに無頓着なところがあり、残されている資料は多くはないのですが、近年実家のお墓の整理(小さい墓石が多く崩れかけていたので)の際に母が過去帳などをもとに調べたり、地元の歴史に詳しい方などのご尽力もあり、色んなことがわかってきました。
今日は私の祖父の祖父にあたる菊地一齋について紹介します。
子どもの頃から、山都に行くと近所の方に「菊地さんの家はお武家さんだから」と言われたり、母からも「会津(松平家)の御典医だったと聞いた」という話を聞かされてきました。その一方、父は「うちは蘆名家に仕えていて、その後は浪人となった」と言っていて(確かに過去帳には、蘆名家に仕えたあと隠居し、その後「数々蒲生ニ招レルトモ不應」と書かれている)、私の中でそれらの情報が整理できていませんでした。最近の会津ブーム(「八重の桜」も含めて)で、私自身も自分の祖先を振り返る機会となりました。
山都町に木曽に宇多郎さんという和菓子屋さんがあり、その裏手の小高い丘の上に「小山公園」があります。そこに、私の祖父の祖父にあたる「菊地一齋」を記念した石碑があります。子どもの頃一度家族と行ったきり、訪れたことがありませんでしたが、今年の夏、母と山都に墓参りに出掛けた際、地元の方に案内していただき、久しぶりにその碑をみてきました。
とてもとても小さい公園。矢印のところにその碑はあります。
上部に縦書きで「弌齋」「菊地」「先生」「碑」と書いてあります。碑の右側にもちょっとみえていますが、公園内のいたるところに百合が自生していて、この碑の脇には桜の木が、公園の一番奥の忠魂碑のそばには大きな松の木があり、自然が豊かなところです。
山都町郷土史研究会の「山都の碑(いしぶみ)」に、この碑に書いてある内容と、それを現代語にしたものが掲載されていて、漢文調の碑文の内容を知ることができます。その一部を引用します。
冒頭部分:
先生は、氏は菊地、諱は為貞、号は一斎である。家は代々医業によつて会津公に仕えており、先生はその七代である。
人柄について:
来診を願い望むものがあれば、夜更けであってもいまだ長く手間どったことはなく、あたかも予測していたという態度である。こういうわけで診察を求めるものが門をうずめた。
其の庫が火災に遭うと、遠近の多くの人々はよい材木を運んで来て(中略)短期間のうちに新しい庫が出来あがった。
教育者として:
かねて経書と歴史を講義し、門人を感化した。書を読む声もまた常に絶えないのであった。
戊辰戦争:
戊辰の役には医師として従軍し、人臣として守るべき正しい道をつくした。
一齋を讃えるという主旨の碑文なのでややほめ過ぎな感じもありますが(笑)、地域医療や教育に貢献した人ではあったようです。
この小山公園のある山都町の木曽地域では、戊辰戦争の時に西軍との戦闘があった場所らしく、新撰組の斉藤一もここで戦ったというような情報をネット上でみかけました。そんな時代を生きたご先祖さまです。
別な資料にも情報がありました。「慶應年間會津藩士人名録」によると医家之部の後ろの方に「御合力格御取扱」というところに「菊地逸斎」の名前がありました。添えられた地名から、うちのご先祖だとわかりました。
まだまだわからないことだらけですが、ご先祖様を少し身近に感じられるようになりました。
*和菓子屋さんの宇多郎さんについては別記事にする予定です。
*参考文献*
◆「山都の碑(いしぶみ)」
発行日 平成十年三月二十日
発行者 福島県耶麻郡山都町山都町郷土史研究会
*知人より入手しました。
◆慶應年間會津藩士人名録
附 斗南藩職員録 若松縣職員録
初版発行 平成四年十月六日
編纂 会津郷土資料研究所
発行所 勉強堂書店
*タイトルで検索すると、古書店などでみつかります。
うちの先祖は家のルーツに無頓着なところがあり、残されている資料は多くはないのですが、近年実家のお墓の整理(小さい墓石が多く崩れかけていたので)の際に母が過去帳などをもとに調べたり、地元の歴史に詳しい方などのご尽力もあり、色んなことがわかってきました。
今日は私の祖父の祖父にあたる菊地一齋について紹介します。
子どもの頃から、山都に行くと近所の方に「菊地さんの家はお武家さんだから」と言われたり、母からも「会津(松平家)の御典医だったと聞いた」という話を聞かされてきました。その一方、父は「うちは蘆名家に仕えていて、その後は浪人となった」と言っていて(確かに過去帳には、蘆名家に仕えたあと隠居し、その後「数々蒲生ニ招レルトモ不應」と書かれている)、私の中でそれらの情報が整理できていませんでした。最近の会津ブーム(「八重の桜」も含めて)で、私自身も自分の祖先を振り返る機会となりました。
山都町に木曽に宇多郎さんという和菓子屋さんがあり、その裏手の小高い丘の上に「小山公園」があります。そこに、私の祖父の祖父にあたる「菊地一齋」を記念した石碑があります。子どもの頃一度家族と行ったきり、訪れたことがありませんでしたが、今年の夏、母と山都に墓参りに出掛けた際、地元の方に案内していただき、久しぶりにその碑をみてきました。
とてもとても小さい公園。矢印のところにその碑はあります。
上部に縦書きで「弌齋」「菊地」「先生」「碑」と書いてあります。碑の右側にもちょっとみえていますが、公園内のいたるところに百合が自生していて、この碑の脇には桜の木が、公園の一番奥の忠魂碑のそばには大きな松の木があり、自然が豊かなところです。
山都町郷土史研究会の「山都の碑(いしぶみ)」に、この碑に書いてある内容と、それを現代語にしたものが掲載されていて、漢文調の碑文の内容を知ることができます。その一部を引用します。
冒頭部分:
先生は、氏は菊地、諱は為貞、号は一斎である。家は代々医業によつて会津公に仕えており、先生はその七代である。
人柄について:
来診を願い望むものがあれば、夜更けであってもいまだ長く手間どったことはなく、あたかも予測していたという態度である。こういうわけで診察を求めるものが門をうずめた。
其の庫が火災に遭うと、遠近の多くの人々はよい材木を運んで来て(中略)短期間のうちに新しい庫が出来あがった。
教育者として:
かねて経書と歴史を講義し、門人を感化した。書を読む声もまた常に絶えないのであった。
戊辰戦争:
戊辰の役には医師として従軍し、人臣として守るべき正しい道をつくした。
一齋を讃えるという主旨の碑文なのでややほめ過ぎな感じもありますが(笑)、地域医療や教育に貢献した人ではあったようです。
この小山公園のある山都町の木曽地域では、戊辰戦争の時に西軍との戦闘があった場所らしく、新撰組の斉藤一もここで戦ったというような情報をネット上でみかけました。そんな時代を生きたご先祖さまです。
別な資料にも情報がありました。「慶應年間會津藩士人名録」によると医家之部の後ろの方に「御合力格御取扱」というところに「菊地逸斎」の名前がありました。添えられた地名から、うちのご先祖だとわかりました。
まだまだわからないことだらけですが、ご先祖様を少し身近に感じられるようになりました。
*和菓子屋さんの宇多郎さんについては別記事にする予定です。
*参考文献*
◆「山都の碑(いしぶみ)」
発行日 平成十年三月二十日
発行者 福島県耶麻郡山都町山都町郷土史研究会
*知人より入手しました。
◆慶應年間會津藩士人名録
附 斗南藩職員録 若松縣職員録
初版発行 平成四年十月六日
編纂 会津郷土資料研究所
発行所 勉強堂書店
*タイトルで検索すると、古書店などでみつかります。
タグ:山都町
2014-11-04 19:30
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